第57回 まつがいけの三十三観音(1/2話)
庄川町青島の松川除から砺波市太田を通って高岡へ行く道があります。元々は庄川の堤防として作られましたが、後に松が植えられ、道としても使われるようになりました。 今からおよそ百六十年前、庄川は毎年大雨ごとに洪水となり、作物に大きな被害を与えました。その上、悪い病気がはやり、多くの人々が亡くなりました。 庄川ぶちの村々の代表の人たちは、どうすればよいか相談しました。 一番年老いた太田村の文左ヱ門は言いました。 「京や奈良に西国三十三霊場めぐりというのがあって、なんでもそこの観音様を順々に拝めば、どんな願いも叶い、誠に霊験あらたかじゃと昔聞いたことがあるがどうじゃろう」 こうして、それぞれの村の代表七人は、西国三十三霊場めぐりへ旅立ちました。無事に村へ帰ってきた七人は、それぞれのお寺の観音様が立派で有難かったことを村人たちに語りました。この話は、たちまち村々へ広がっていきました。 中野村の永昌庵という尼寺に、鉄猶尼(てつゆうに)という尼さんがいました。鉄猶尼は、村人も西国めぐりをしたいという願いを知り、何とかしなければならないと考えました。 「庄川の堤防の道ぞいに、西国の霊場にならって、石で彫った三十三体の観音様を建てたらどうやろうか」 鉄猶尼のよびかけに村人たちは賛同し、それからおよそ十年かけて、庄川版の「三十三体の観音様」ができあがりました。村人たちだけではなく、遠く高岡からも大勢の人がお参りに来るようになり、観音様の前はお花やお供物が絶えることはありませんでした。 −つづく−
|
|
/DBIMG/COLUMN/densetsu_125_1.jpg
「三十三体の観音様」ができあがりました
「三十三体の観音様」ができあがりました
|