となみ野ストーリー 第23回.「『バカ正直』の姿勢を貫いた男」
●酷苦勉励から中央官僚へ 砺波市文化会館の正面に、砺波市名誉市民である片岡清一の胸像があります。片岡は日本や中国を舞台に活躍した「清廉潔白」な政治家でした。 片岡清一は明治44年7月、東砺波郡苗加村(現在の砺波市苗加)で生まれました。兄弟の多い片岡には、義務教育以降の中学校へ進学できる見込みはありませんでした。これを見かねた地元の名士が、小学6年生の時、「農作業を手伝うなら、中学校へ出してあげよう」と申し出ます。大喜びした彼は、昼間は学校へ、夕方から馬の世話や農作業の手伝い、夜は再び机に向かって勉強するという生活を続けました。東京帝国大学法学部へ進んだ片岡は、在学中に高等試験行政科に合格し、内務省(現在の総務省)へ入省します。ちなみに四校入学の際に片岡家を継いだ彼は、野村姓から片岡姓に変わっています。 昭和10年4月、内務省に入省した彼は、栃木県教育課長就任を振り出しに、戦前は内閣情報部書記官などを歴任、戦後は警視庁警備第一部長、兵庫県警本部長などを務めました。
●故郷の市長から衆議院議員へ 昭和41年8月1日の夕方、幼なじみの川辺俊雄(のちの砺波市長・当時砺波市議)から「大井市長が病気で引退する。後任の市長に満場一致で推薦することに決まった」という電話が入ります。知事を目指す片岡でしたが、郷里の人々の説得を受け入れて、砺波市長となります。出町の都市計画の推進、大砺波圏共同開発推進協議会の創立、砺波市立体育館の建設などに力を尽くしました。 同じ頃、地元の大物代議士・松村謙三が勇退、片岡はその後継者に指名されます。一度落選したのち、同47年の総選挙で初当選を果たします。 同62年12月に発足した竹下改造内閣で、片岡は郵政大臣に推挙されます。常に質素な議員活動にこだわり、利益誘導に対しては、厳しい考えを持っていました。こうした片岡の政治姿勢に人々は共鳴しました。
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片岡清一
片岡清一
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