となみ野ストーリー 第26回.ひたすら利賀の発展を望んだ男
●この村を何とかせねば! その昔、利賀村はまさに「陸の孤島」のような村、冬になると町へ通じる道が寸断され、雪深い中で一冬を明かす生活を余儀なくされました。 須河信一は、明治28(1895)年11月に、利賀村坂上で生まれました。幼い頃から負けん気が強く、正義感あふれる少年でした。 村役場に勤めるようになった須河は、「この不便な村を何とかしなければ、我々の生活は一向に良くならない」と考え、上京して明治大学へ入学、法律・経済・政治・社会を学びます。そして帰郷した須河は、村民の期待を背負って、大正14年に29歳で利賀村長に推挙されます。 村長になった須河は、伝染病院の新築、町村電話の架設、診療所の開設、各地区に分教場(学校)の設置、井波・八尾へ抜ける自動車道建設などに取り組みました。通算4期村長をつとめた後は、村議を2期つとめ、戦後は公選初の村議会議長にも就任します。 そもそも須河は、利賀村をはじめ近隣にあった広大な山林を所有していました。戦争によって木材の価格が五百倍に跳ね上がり、県内きっての木材王となります。
●「五箇山の山猿」と陰口を叩かれて・・・ 須河は昭和21年に行われた衆議院選挙に、周囲の反対をおして無所属で出馬します。しかし惜敗した須河は、翌年の県議会議員選挙に出馬しトップ当選、以後連続3回当選します。同26年5月から1年6ヶ月間、先輩に先駆けて県議会議長に就任、政治家・経営者として多忙な生活を送ります。 須河は同34年に行われた県議選に、4期目指して出馬するも敗れ、静かに政治の表舞台から去ります。須河自身は選挙の度に多くのお金を使いましたが、それらは膨大な借金に膨れ上がり、自分が社長をしていた会社や多くの山林がその穴埋めに充てられました。 その後生まれ故郷の利賀村に戻った須河は、娘夫婦に世話になりながら悠々自適な生活を続けました。そして同50年11月、80年の生涯を閉じました。
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須河によって利賀の生活は大きく変わりました。
須河によって利賀の生活は大きく変わりました。
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