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2016/2/1 2016/3/1 となみ野ストーリー 第28回.「『源氏物語』を愛してやまなかった男」・ ●ルーツは「あまのじゃく」!?
 国語の授業で学んだ『源氏物語』をめぐって、学会に議論を巻き起こした人物が武田宗俊です。1903(明治36)年1月25日に東礪波郡南山見村院瀬見(現在の南砺市院瀬見)で生まれた武田は、うぬぼれが強く、人の真似をすることを嫌う性格でした。国文学の道へ進むきっかけとなったのは、小学校の先生の言葉でした。「作文が上手くなりたいなら、名文を読むことが一番だ」、その言葉に影響を受け、名著を買い求めました。卒業後は新潟県の禅宗寺へ行き、その2年後には西宮市で働きながら小学校準教員の資格取得を目指しました。合格後は帰郷し、県立神通中学校で教鞭を執ったほか、秋田や大阪の学校で教壇に立ちました。そして武田36歳の時、桐蔭女子専門学校を退職、東北大学文学部に専攻生として入学、国文学とドイツ文芸学を専攻しました。  

●源氏物語はこの順番で書かれた
 昭和25年、福島大学教授だった武田は、論文「源氏物語の最初の形態」を発表します。全54巻から成る『源氏物語』について、今のような配列順序で執筆されておらず、最初にいくつかの巻が書かれた後に、ほかの巻が挿入されたというものでした。これに対して、学会の定説が大きく崩れると、多くの反論が寄せられました。しかし武田は「今、私の説に反対している人は、あとでその始末をつけるのに苦労するだろうね」と語っていました。4年後には『源氏物語』研究の集大成として『源氏物語の研究』を発表します。さて武田は『源氏物語』の本をボロボロになるまで読みこんでいました。枕元にはメモ帳が常備され、気付いたことを手当たり次第にメモ、こうして武田の「源氏物語論」が熟成されていきました。さて同42年、武田が64歳の時に福島大学を退官し、青山学院大学文学部で7年間の教員生活を送ります。昭和55年6月20日、77歳の生涯を終えました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2016/2/1 次回更新日:2016/3/1
となみ野ストーリー 第28回.「『源氏物語』を愛してやまなかった男」・

●ルーツは「あまのじゃく」!?
 国語の授業で学んだ『源氏物語』をめぐって、学会に議論を巻き起こした人物が武田宗俊です。1903(明治36)年1月25日に東礪波郡南山見村院瀬見(現在の南砺市院瀬見)で生まれた武田は、うぬぼれが強く、人の真似をすることを嫌う性格でした。国文学の道へ進むきっかけとなったのは、小学校の先生の言葉でした。「作文が上手くなりたいなら、名文を読むことが一番だ」、その言葉に影響を受け、名著を買い求めました。卒業後は新潟県の禅宗寺へ行き、その2年後には西宮市で働きながら小学校準教員の資格取得を目指しました。合格後は帰郷し、県立神通中学校で教鞭を執ったほか、秋田や大阪の学校で教壇に立ちました。そして武田36歳の時、桐蔭女子専門学校を退職、東北大学文学部に専攻生として入学、国文学とドイツ文芸学を専攻しました。  

●源氏物語はこの順番で書かれた
 昭和25年、福島大学教授だった武田は、論文「源氏物語の最初の形態」を発表します。全54巻から成る『源氏物語』について、今のような配列順序で執筆されておらず、最初にいくつかの巻が書かれた後に、ほかの巻が挿入されたというものでした。これに対して、学会の定説が大きく崩れると、多くの反論が寄せられました。しかし武田は「今、私の説に反対している人は、あとでその始末をつけるのに苦労するだろうね」と語っていました。4年後には『源氏物語』研究の集大成として『源氏物語の研究』を発表します。さて武田は『源氏物語』の本をボロボロになるまで読みこんでいました。枕元にはメモ帳が常備され、気付いたことを手当たり次第にメモ、こうして武田の「源氏物語論」が熟成されていきました。さて同42年、武田が64歳の時に福島大学を退官し、青山学院大学文学部で7年間の教員生活を送ります。昭和55年6月20日、77歳の生涯を終えました。


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武田宗俊
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