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2014/4/1 2014/5/1 となみ野ストーリー 第6回.南極観測船『宗谷』を生み出した男 ●造船王となった男の生涯
戦前、花形産業の代名詞のようにいわれていたのが、造船業です。戦時中、長崎県に川南工業という造船会社がありました。南極観測船として活躍した『宗谷』を建造した会社で、今でも業界ではよく知られた造船会社です。
この川南工業の経営を切り盛りしていたのが、旧井口村出身の川南豊作です。もともと製缶事業に取り組んでいた彼は、本家筋の秀造が経営するイワシの缶詰を製造する食品会社に身を寄せました。その後水産加工業から転換し、昭和9年(1934)にガラスの一貫製造に着手し、佐賀県にソーダ工場(ガラスの原料を製造)とガラス工場を作りました。
ここで困ったのは、新規参入が難しいことと、高い輸送運賃をどうするかということ。豊作は直接自分たちで船を作り、海外から安く原料を仕入れようと考えました。この発案がのちに川南工業が創業するきっかけとなりました。

●南極観測船「宗谷」とは?
 もともと昭和12年にソ連から耐氷型船3隻が、この川南工業に受注されました。ファーストネームはロシア語の「ボロチャエベツ」でした。翌年に完成しましたが、日本海軍から「引き渡しを中止せよ」との命令が出され、結局海軍に買い取られ、「地領丸」と命名されました。のちに「宗谷」と改名され、太平洋戦争中には、港湾の測量に従事したほか、ミッドウェー海戦などに参加しました。
 戦後は引揚船、灯台補給船として活躍し、同31年からは南極観測船「宗谷」として生まれ変わり、日本の南極研究に大きな役割を果たしました。その後同53年に退役するまで海上保安庁の巡視船として活躍しました。翌年から東京のお台場にある「船の科学館」で永久展示されており、船内を閲覧できるようになっています。 

となみ野ストーリー
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掲載日:2014/4/1 次回更新日:2014/5/1
となみ野ストーリー 第6回.南極観測船『宗谷』を生み出した男

●造船王となった男の生涯
戦前、花形産業の代名詞のようにいわれていたのが、造船業です。戦時中、長崎県に川南工業という造船会社がありました。南極観測船として活躍した『宗谷』を建造した会社で、今でも業界ではよく知られた造船会社です。
この川南工業の経営を切り盛りしていたのが、旧井口村出身の川南豊作です。もともと製缶事業に取り組んでいた彼は、本家筋の秀造が経営するイワシの缶詰を製造する食品会社に身を寄せました。その後水産加工業から転換し、昭和9年(1934)にガラスの一貫製造に着手し、佐賀県にソーダ工場(ガラスの原料を製造)とガラス工場を作りました。
ここで困ったのは、新規参入が難しいことと、高い輸送運賃をどうするかということ。豊作は直接自分たちで船を作り、海外から安く原料を仕入れようと考えました。この発案がのちに川南工業が創業するきっかけとなりました。

●南極観測船「宗谷」とは?
 もともと昭和12年にソ連から耐氷型船3隻が、この川南工業に受注されました。ファーストネームはロシア語の「ボロチャエベツ」でした。翌年に完成しましたが、日本海軍から「引き渡しを中止せよ」との命令が出され、結局海軍に買い取られ、「地領丸」と命名されました。のちに「宗谷」と改名され、太平洋戦争中には、港湾の測量に従事したほか、ミッドウェー海戦などに参加しました。
 戦後は引揚船、灯台補給船として活躍し、同31年からは南極観測船「宗谷」として生まれ変わり、日本の南極研究に大きな役割を果たしました。その後同53年に退役するまで海上保安庁の巡視船として活躍しました。翌年から東京のお台場にある「船の科学館」で永久展示されており、船内を閲覧できるようになっています。 


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東京の人気スポット「お台場」にただずむ宗谷。船内には川南のこだわりが見られます!
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