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2014/5/1 2014/6/1 となみ野ストーリー 第7回.維新後初のヨーロッパ留学生 ●神童といわれたユニーク人間!
 『海を越えた日本人名事典』という一見変わったタイトルの事典には、日本史でよく耳にした人物が多数紹介されています。その中に城端出身の人物が2名紹介されています。そのうち1人が、今回ご紹介する赤松連城です。
 赤松連城は、江戸時代の天保12年(1841)に、西本願寺の願称寺(現在の小矢部市西中地内にある寺で、1376年に創建されたといわれている)にて出家し、仏門に入りました。その後金沢の西勝寺に養子となりましたが、のちに周防国徳山(現在の山口県徳山市)にあった得応寺の養子となり、この時に名前も連城と名を改めました。
 西本願寺では明治の初め頃、ヨーロッパの宗教事情を視察して、宗門改革を進めなければならないと考えていました。

●イギリスへ出かけた第1号
 建議がなされて5年後の明治5年(1872)1月、新法主の明如の代理として、明如の兄弟であった梅上沢融がヨーロッパに派遣されました。赤松はこの時第1回の留学僧として、堀川教阿とイギリスに留学しました。
 翌年には岩倉具視を団長とする使節団がイギリスを訪れますが、随員の林薫が委嘱によって「マホメット伝」を口訳しましたが、赤松はそれを筆記しました。
 明治7年には日本に帰国し、イギリスで見聞した学校教育法にならって、学林(仏教の学校のこと)の制度を改正しました。同12年には太政官布告により、宗制や寺法の草案の作成にあたり、のちの宗教法案(同32年に成立)の早期法案化に尽力しました。
 その後布教をすべく台湾に赴きますが、病を得てやむなく帰国します。そして同年6月中旬に滞在先の広島にて腸チフスにかかります。結局病状は回復せず、山口県徳山市にある徳応寺で79歳の生涯を閉じました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2014/5/1 次回更新日:2014/6/1
となみ野ストーリー 第7回.維新後初のヨーロッパ留学生

●神童といわれたユニーク人間!
 『海を越えた日本人名事典』という一見変わったタイトルの事典には、日本史でよく耳にした人物が多数紹介されています。その中に城端出身の人物が2名紹介されています。そのうち1人が、今回ご紹介する赤松連城です。
 赤松連城は、江戸時代の天保12年(1841)に、西本願寺の願称寺(現在の小矢部市西中地内にある寺で、1376年に創建されたといわれている)にて出家し、仏門に入りました。その後金沢の西勝寺に養子となりましたが、のちに周防国徳山(現在の山口県徳山市)にあった得応寺の養子となり、この時に名前も連城と名を改めました。
 西本願寺では明治の初め頃、ヨーロッパの宗教事情を視察して、宗門改革を進めなければならないと考えていました。

●イギリスへ出かけた第1号
 建議がなされて5年後の明治5年(1872)1月、新法主の明如の代理として、明如の兄弟であった梅上沢融がヨーロッパに派遣されました。赤松はこの時第1回の留学僧として、堀川教阿とイギリスに留学しました。
 翌年には岩倉具視を団長とする使節団がイギリスを訪れますが、随員の林薫が委嘱によって「マホメット伝」を口訳しましたが、赤松はそれを筆記しました。
 明治7年には日本に帰国し、イギリスで見聞した学校教育法にならって、学林(仏教の学校のこと)の制度を改正しました。同12年には太政官布告により、宗制や寺法の草案の作成にあたり、のちの宗教法案(同32年に成立)の早期法案化に尽力しました。
 その後布教をすべく台湾に赴きますが、病を得てやむなく帰国します。そして同年6月中旬に滞在先の広島にて腸チフスにかかります。結局病状は回復せず、山口県徳山市にある徳応寺で79歳の生涯を閉じました。


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小矢部市にある願称寺。赤松はこのお寺にいる時、どんな将来を夢見ていたのでしょうか?
小矢部市にある願称寺。赤松はこのお寺にいる時、どんな将来を夢見ていたのでしょうか?


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