となみ野ストーリー 第29回.未開の地で建設会社を興した男
●一家の家計を支えるために 北海道で、最老舗かつ最大手の建設会社として知られている地崎工業は、小矢部市出身の地崎宇三郎(初代)が創業した会社です。 地崎は、明治2(1869)年10月17日に西礪波郡石動町福町(現在の小矢部市西福町)で生まれました。地崎は申義小学校(現在の石動小学校)を1年で中退、その後近所の寺子屋で学びながら、貧しい家計を支えます。しかし18歳の時、闘病生活を続けていた父が死去、家計を助けるために故郷をあとにします。大阪に到着した地崎は「商売人になろう!」と奮起、手持ちのお金を元手に1ヶ月ほど米相場を開きます。そんなある時、北海道への移住を募る記事を見かけた地崎は、未知なる土地に自分の可能性を求め、約1ヶ月で大阪を離れます。北海道に到着した地崎は、苫小牧の土木工事会社で働き始めます。
●不屈な闘魂が実る 北海道に到着して半年後、地崎は独立して「地崎組」を創立しました。しかし今村組自体が下請業者だったため、独立したとはいえ実際は孫請会社でした。地崎自身、吃音持ちでしたが、それをバネにして仕事を誠実にこなします。施工予定日より一日でも早く完成させる、必ず5日以内に支払いを完納するなど、元請業者の信頼を勝ち得ます。 また貧しい境遇で育った地崎は、「公共の福祉」にも強い関心を示しました。第一次世界大戦後に反動不況となった大正末期、街には多くの失業者があふれました。地崎の自宅前にも、多くの浮浪者が集まっていました。こうした窮状を見かねた地崎は、救いの手を差しのべました。腹心から「いい加減にやめたらどうか」と進言されますが、地崎は「自分が今日こうしてあるのも、このような底辺にある人々の犠牲によるものだ。」と一喝したといいます。 昭和11年4月23日に62歳で亡くなった地崎は生前「医学の発展には遺体提供者が不可欠」と遺言を残し、遺体を北海道帝國大学に提供すると申し出ていました。
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地崎宇三郎
地崎宇三郎
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