となみ野ストーリー 第33回.北陸を代表する事業家であり続けた男
●金沢の救世主 明治以降、金沢は幕政の旧体制の色濃く残り、時代の波に乗り遅れていました。「このままでは金沢の経済力は衰退してしまう」金沢市民の多くがそう思う中、彗星の如く現われたのが西川外吉でした。 西川は明治34年4月29日、東礪波郡城端町東新田で生まれました。城端小学校を卒業後、福井県立工業学校に進学します。卒業間際、学校内でストライキが起こり、首謀者に担がれた西川は退学処分を受けます。これを聞いた父は激怒、勘当同然で京都の羽二重商へ奉公に出されます。 大正10年春、21歳の西川は、津幡で事業展開していた父に勘当を解かれます。昭和4年、27歳で西川商店を創業、企業家として第一歩を歩み始めます。業績は右肩上がり、まさに飛ぶ鳥落とす勢いでした。しかし、時代は戦時統制経済に移行、西川商店は創業13年で、金沢絹人絹織物元売株式会社に吸収され、西川は取締役に加わりました。
●政治家よりも財界人として 昭和21年、金沢商工会議所の副会頭に就任した西川は、翌年には会頭に就任、以後21年間つとめ上げました。そんな西川に事業家たちは「政治の表舞台に立たないか」と依頼しますが、彼はそれを固辞、「政治は政治家に任せるべきだ。二足のワラジをはくべきではない」との信念を貫きました。 昭和41年、西川は事業を長男に譲り、第一線から退きます。間もなく、突然の嘔吐と腹痛に見舞われます。発病までの半年間、西川は自宅の金沢・寺町の高台から、「私の生まれた故郷がみえる(気がする)」と喜んでいました。西川は城端町に生家とその敷地を寄付していますが、彼の死後は東新田公民館として、今も大切に使われています。 翌年6月16日の晩、西川の様態が急変し、67歳の生涯を閉じます。東京からその日のうちに無言の帰宅をし、途中商工会議所に立ち寄りました。そして全職員が、西川に黙祷を受けました。告別式では、2,500人という参列者を数えました。
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西川外吉
西川外吉
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