となみ野ストーリー 第35回.稲を拝み、愛し続けた男
●55歳で稲作に初挑戦 となみ野は、沢山のお米が育つ大地。福光の一百姓だった宮川庄太郎は、少ない肥料で稲の自主性を生かして育てる農法を提案・実践し、大きな反響をもたらしました。 宮川は、明治23(1890)年5月5日に旧福光町山本(現在の南砺市山本)で生まれました。地元の中学校を卒業後、上京して土木建築学を学び、逓信省に入省します。発電水力調査のため渡道し、以後30年、樺太で活躍しました。 昭和18年の春、生家で農業を引き継ぐために帰郷します。農業関係書を片っ端から買い集めた宮川は、どうすれば少ない肥料で多く収穫できるかを考えました。そして宮川は早速、自分の納得できる農法を見つけようと、全国の篤農家や学者に教えを乞うべく、各地を歩き回ります。この旅を通じて、稲作には多くの方法があることを知った宮川は、彼らの話で共通する部分を拾い上げて実践しました。ところがその農法は、当時の常識を破るもので、周囲には仰天ものでした。人々から非難・罵倒の声を浴びせられた宮川でしたが、自説を信じて頑張り抜きました。
●一転して「先生」に! 人々の予想に反して多くの米を収穫した宮川に対し、周囲の酷評が一転し、先生として評価が高まりました。新聞などにも取り上げられたことから、宮川の田んぼを一目見ようと、全国から大勢の視察が訪れました。 そもそも宮川農法は、確立されたものではありません。単に田んぼに苗を植えるだけでなく、『稲』本来が潜在的に持つ能力を引き出すことに主眼を置き、「どうしたら米を多く収穫できるか」といった現実ばかりを追う人には、理解されないものでした。 また宮川自身、徹底した朝・昼の二食主義の実践者でした。「二食主義のおかげで、昔から医者に掛かったことがない」とよく話していました。ところが年齢には勝てず、昭和40年、近くの風呂屋で突然倒れ、そのまま息を引き取ります。享年75歳でした。
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宮川庄太郎
宮川庄太郎
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