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2016/11/1 2016/12/1 となみ野ストーリー 第37回.日本一のかきやまを生み出した男 ●趣味の俳句を生かした経営
 福光を「かきやま」の名産地に育て上げた同社の礎を築いた人物が川合宣之です。
川合は、明治32(1899)年3月20日に福光町新町(現在の南砺市福光)で生まれました。学業優秀だった彼は、中学進学を望みますが、それが叶わず建設作業員となります。しかし25歳の時に母が他界し、川合は郷里へ戻ります。
 このころ異母姉の婿が、細々とあられを製造していました。そこで川合はこの職人を呼び寄せ、技術を学ぶことを思い立ちます。あられは今から需要が多くなるのでやってみないかと誘われたのです。そして大正13年2月、従業員3人を従えてのあられ製造が始まりました。早速川合は、顧客開拓を目指して各地を走り回ります。営業のノウハウを持たない彼は、20歳から生涯楽しんだ「俳句」を用いて営業展開します。自身の俳号も「かきやま」をもじって「柿山(しざん)」と名付け、趣味と実用を兼ねたものでした。

●「類ありて比なし」
 古くから富山では保存食として、もちを薄く切って焼いた「欠餅(かきもち)」がありました。川合はこれを「柿山(かきやま)」と名付け、商標登録します。
 戦争が激しくなった昭和18年、原料の確保が困難となり、休業を余儀なくされます。終戦後もしばらくは、原料米の配給が得られない日々が続きますが、同25年5月にようやく事業再開し、4年後には株式会社日乃出屋製菓所を設立します。
 以来、かきやまの消費量は飛躍的な増加をみせ、その時流に乗るべく同38年5月、富山市に新工場を建設、清潔でオートメーション化された工場は、業界の注目の的でした。
 その後川合は、手狭になった福光・新町から郊外に本社・工場を移したほか、各地に営業所などを置いて販売網を拡充、「かきやま」は全国に広まりました。
 生涯かきやまを愛し続けた川合は、同48年1月7日に73年の生涯を閉じました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2016/11/1 次回更新日:2016/12/1
となみ野ストーリー 第37回.日本一のかきやまを生み出した男

●趣味の俳句を生かした経営
 福光を「かきやま」の名産地に育て上げた同社の礎を築いた人物が川合宣之です。
川合は、明治32(1899)年3月20日に福光町新町(現在の南砺市福光)で生まれました。学業優秀だった彼は、中学進学を望みますが、それが叶わず建設作業員となります。しかし25歳の時に母が他界し、川合は郷里へ戻ります。
 このころ異母姉の婿が、細々とあられを製造していました。そこで川合はこの職人を呼び寄せ、技術を学ぶことを思い立ちます。あられは今から需要が多くなるのでやってみないかと誘われたのです。そして大正13年2月、従業員3人を従えてのあられ製造が始まりました。早速川合は、顧客開拓を目指して各地を走り回ります。営業のノウハウを持たない彼は、20歳から生涯楽しんだ「俳句」を用いて営業展開します。自身の俳号も「かきやま」をもじって「柿山(しざん)」と名付け、趣味と実用を兼ねたものでした。

●「類ありて比なし」
 古くから富山では保存食として、もちを薄く切って焼いた「欠餅(かきもち)」がありました。川合はこれを「柿山(かきやま)」と名付け、商標登録します。
 戦争が激しくなった昭和18年、原料の確保が困難となり、休業を余儀なくされます。終戦後もしばらくは、原料米の配給が得られない日々が続きますが、同25年5月にようやく事業再開し、4年後には株式会社日乃出屋製菓所を設立します。
 以来、かきやまの消費量は飛躍的な増加をみせ、その時流に乗るべく同38年5月、富山市に新工場を建設、清潔でオートメーション化された工場は、業界の注目の的でした。
 その後川合は、手狭になった福光・新町から郊外に本社・工場を移したほか、各地に営業所などを置いて販売網を拡充、「かきやま」は全国に広まりました。
 生涯かきやまを愛し続けた川合は、同48年1月7日に73年の生涯を閉じました。


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川合宣之
川合宣之


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