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2017/1/1 2017/2/1 となみ野ストーリー 第39回.生涯『教育者』であり続けた男 ●歌を口ずさみながら…
 高岡市にある高岡第一高等学校は、昭和34年に開校しました。学校長だった川原忠平は、一期生に「私学に学ぶ誇りを持て」と説きました。
 川原は、明治32(1899)年1月27日に西礪波郡西太美村才川(現在の南砺市才川)で生まれました。福光尋常高等小学校を卒業し、富山師範学校を受験し、ようやく三度目で合格を果たします。
 大正9年3月、富山師範を卒業した川原は、石動尋常高等小学校の訓導となり、教員生活のスタートを切ります。しかし一年足らずで教員を辞め、国立で唯一の教員養成所を持つ東京帝國大学農学部(現在の筑波大学)を目指します。同校卒業後は、秋田や奈良へ赴任し、園芸教科などの指導にあたりました。
 36歳になった昭和9年、川原は楽しい教員生活を満喫していた奈良から富山に呼び戻され、小杉農学校(現在の小杉高校)教頭となりました。以降戦時中の苦しい時期、農場実習、開墾、耕地整理、炭焼き、植林など、あらゆる実習に取り組みました。

●あの子たちを救わねば!
 昭和24年3月、川原は福野高校長に就任、延べ10年間つとめ上げました。しかし激職で無理を重ねた彼は体調を崩し、学校長を退職します。病床で川原は、校長室から眺めていた、多くの中学浪人生たちの顔を浮かべ、「呉西に私立高校がないのは、教育の機会平等という点からもおかしい。希望しながら高校の門をくぐれなかった多くの子供たちを救わねば!」と考えていました。
 多くの困難に直面しながらもスタートを切った高岡第一高校の入学式は、昭和34年4月15日に志貴野中学校を間借りして挙行されました。
 昭和46年の秋ごろから、体調不良を訴えた川原は、入院して静養するよう進言されます。しかし体調が回復しなかった川原は、翌年1月3日、川原は77年の生涯を閉じます。葬儀には多数の弔問客が訪れ、真の教育者であり続けた川原に別れを告げました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2017/1/1 次回更新日:2017/2/1
となみ野ストーリー 第39回.生涯『教育者』であり続けた男

●歌を口ずさみながら…
 高岡市にある高岡第一高等学校は、昭和34年に開校しました。学校長だった川原忠平は、一期生に「私学に学ぶ誇りを持て」と説きました。
 川原は、明治32(1899)年1月27日に西礪波郡西太美村才川(現在の南砺市才川)で生まれました。福光尋常高等小学校を卒業し、富山師範学校を受験し、ようやく三度目で合格を果たします。
 大正9年3月、富山師範を卒業した川原は、石動尋常高等小学校の訓導となり、教員生活のスタートを切ります。しかし一年足らずで教員を辞め、国立で唯一の教員養成所を持つ東京帝國大学農学部(現在の筑波大学)を目指します。同校卒業後は、秋田や奈良へ赴任し、園芸教科などの指導にあたりました。
 36歳になった昭和9年、川原は楽しい教員生活を満喫していた奈良から富山に呼び戻され、小杉農学校(現在の小杉高校)教頭となりました。以降戦時中の苦しい時期、農場実習、開墾、耕地整理、炭焼き、植林など、あらゆる実習に取り組みました。

●あの子たちを救わねば!
 昭和24年3月、川原は福野高校長に就任、延べ10年間つとめ上げました。しかし激職で無理を重ねた彼は体調を崩し、学校長を退職します。病床で川原は、校長室から眺めていた、多くの中学浪人生たちの顔を浮かべ、「呉西に私立高校がないのは、教育の機会平等という点からもおかしい。希望しながら高校の門をくぐれなかった多くの子供たちを救わねば!」と考えていました。
 多くの困難に直面しながらもスタートを切った高岡第一高校の入学式は、昭和34年4月15日に志貴野中学校を間借りして挙行されました。
 昭和46年の秋ごろから、体調不良を訴えた川原は、入院して静養するよう進言されます。しかし体調が回復しなかった川原は、翌年1月3日、川原は77年の生涯を閉じます。葬儀には多数の弔問客が訪れ、真の教育者であり続けた川原に別れを告げました。


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川原忠平
川原忠平


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