となみ野ストーリー 第41回.教化の道を極めた男
●父の愛情に励まされ… 金沢市の尾山台高等学校は、平成24年に創立90周年を迎えました。この前身「金沢高等予備学校」を創立したのが石原堅正です。 石原は、明治17年11月20日に東礪波郡細野村(現在の南砺市細野)の西光寺で生まれました。眼下に広がる城端を眺めながら育った彼は、高岡中学校に進学します。熱心に勉強する彼を認めた教師・石原即聞は、彼を養子に迎えます。その後、京都仏教大学(現在の龍谷大学)に入学、同学研究院に進み、卒業後は福井別院で教務所主任となります。 それから2年後、石原に善興寺住職から、金沢別院の輪番に推薦したいと書かれた手紙が届きます。36歳で輪番となった彼は、早速大谷廟所本堂を仮園舎とした幼稚園て設置します。半年後には、金沢高等予備学校(その後定時制尾山高校、昭和20年廃校)の設置を実現しました。
●懐に辞表を携えて… 次に石原は仏教青年会館を建設しようと考えますが、僧侶から「当地の事情も知らずに建てるとは」との意見が挙がります。石原は、自身の構想を必死に説きました。また別院の有力者が結託し、彼を追い出そうとします際も、「私利私欲ではない」と主張しました。 大正13年7月、努力が実って仏教青年会館が建設されます。同12月には金沢高等予備学校長となり、間もなく高等女学校を創立しようと考えます。 石原は資金を確保すべく、翌朝石動に住む別院の勘定を訪ね、女学校を設置する思いや資金で困っていることを打ち明けます。すると勘定は「それほどまで苦労する貴方の真心に打たれた。銀行の小切手帳を預けよう」と答えます。石原は感激し、涙が止まりませんでした。いよいよ同14年、金沢高等予備学校夜間部の教室を借りて、私立金沢女子学院(昭和52年共学となり、現在の尾山台高校となり、現在に至る)が開校されました。 昭和53年の夏、石原は体調の不良を訴えて入院し、翌年2月5日に94年の生涯を閉じます。
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石原堅正
石原堅正
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