となみ野ストーリー 第44回.『ノーベル賞』に手が届きそうだった男
●湯川秀樹に憧れる 物理学の「ノーベル賞」といわれる「仁科賞」。昭和49年に素粒子の研究論文を発表して、同賞を受賞したのが、旧井波町出身の崎田文二です。崎田は、素粒子研究の第一人者として、物理学界にその名を残しました。 崎田は昭和5年、東礪波郡井波町畑方(現在の南砺市井波)で生まれました。県立高岡中学校(現在の高岡高校)を卒業し、金沢大学理学部へ進学した彼は、在学中に湯川秀樹が日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞したという報せを耳にします。 同28年同大学院に進み、崎田は一年ほど助手をつとめます。翌年には、湯川と同じ素粒子(物質または場を構成する基本的な粒子のこと)論グループがあった名古屋大学大学院に移籍し、坂田昌一教授の元で助手となります。その後フルブライト留学生として渡米した彼は、ロチェスター大学大学院に入学、在籍中に博士号を取得します。ウィスコンシン大学助教授だった昭和39年、崎田は「素粒子のSU(6)対称性」理論を発表します。これは、物質または場を構成する基本的な粒子である「素粒子」を、群論を使って分類・整理するというものでした。
●弦理論の基礎を築き、仁科記念賞を受賞 アメリカへ戻った崎田は、ニューヨーク市立大学の特別教授となります。彼のもとには、世界各地の優れた研究者が集まり、研究室は活気を呈していました。彼は学生に対して難しすぎず、やさしすぎない的確な問題を出題するなど、教育者としても一流でした。 この頃から崎田自身の関心事も物性物理学へと移り、超対称性を初めて指摘した論文、弦理論、多体系の集団運動、ゲージ理論などを研究し、多くの論文を発表します。この後は、自然界で働く力の根源を解き明かす「超ひも理論」の研究に邁進し、その基礎を築きます。 平成14年になると崎田は体の不調を訴え、入退院を繰り返します。そして8月31日、まさに研究に明け暮れた72年の生涯を閉じました。
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崎田文二
崎田文二
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