となみ野ストーリー 第14回.東洋一のダムを計画した男
●裸一貫で大事業家に 庄川は昔から「暴れ川」として、その名を轟かせていました。この庄川のエネルギーを水力発電として利用できないかと考えた人物こそ、氷見市出身の浅野総一郎です。 浅野は1884年に現在の氷見市薮田で生まれました。代々村医者を務める家系で、両親から医者の道へ進むことを期待されていました。しかし12歳ころから「商売」に興味を持つようになり、15歳のころからいろいろな事業に手を出すようになり、多額の借金を抱えてしまいます。浅野は逃げるように故郷を離れ、上京することを決意します。 上京した浅野は、「お茶の水」の清水に砂糖を入れた水「ひゃっこい」を売る商売を始めます。その後横浜で竹の皮商売を始めた浅野は、商売の面白さにますますのめり込みます。さらに薪炭業、石炭商にも取り組み、次々と成功を収めました。
●「セメント王」になる 明治13年、政府は官営工場を民間に払い下げるという方針を出します。それを聞いた浅野は大喜びします。ところがセメント工場を経営したいと考えていた彼に対して、渋沢栄一は「セメントに手を出すのはやめたほうがいい」と助言します。生涯を通して渋沢の意見に従い続けた浅野でしたが、この時だけは引き下がりませんでした。 そして同16年には、東京の深川にあった官営深川セメント工場を買収し、年産一千万樽の大会社に育て上げました。セメント事業を核に浅野は事業を拡大し、一大財閥を築き上げます。 さて水力発電に適した水量を保つ、庄川の水力発電を計画した浅野は、大正8年に庄川水力電気会社を創立しました。ダム建設に際して、のべ百万人の労働力が投入され、5年という短期間でダムが完成します。このダムの最大出力は72,000kwを誇り、耐震も十分に考慮された設計になっていました。小牧ダムの上流には、多くの発電所が点在していますが、これらは浅野が計画したもので、彼の死後次々と完成しています。
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庄川町の水記念公園に建っている浅野の銅像。この上流にあるのが「小牧ダム」です。
庄川町の水記念公園に建っている浅野の銅像。この上流にあるのが「小牧ダム」です。
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