となみ野ストーリー 第17回.6,000人の心臓を救った名医
●「剣道から人生の道を学ぶ」 香川県にある国立香川医科大学(現在の香川大学医学部)の創立に力を尽くした人物として、砺波出身の砂田輝武がいました。 砂田は明治45(1912)年、砺波市鷹栖で生まれました。両親は教育熱心でしたが、勉学や進学については子供の自主性に任せる姿勢をとりました。 近くの県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に進学した彼は、剣道に励みます。剣道を通じて医者としての原点を学んだという砂田は、岡山医科大学へ進学してからも続け、大阪大学との定期試合に出場して「8人抜き」をやってのけるなど、岡山の剣道界にその名を轟かせました。 さてこの当時、医学の分野、とりわけ外科の研究は遅れていました。砂田は戦前未踏の分野だった心臓・血管外科の開発に力を注ぎ、日本における開拓者として外科学発展に尽力する決意をしました。
●「外科医百年の夢に取り組む」 昭和27年、砂田は岡山大学の助教授になっていました。このころの日本では、出生者の200に1人が心臓に病を持っていました。 「不幸な子供を何とか助けたい!」と願った砂田が、西日本で初めて動脈管開存症の男子の心臓にメスを入れたのは、その2年後でした。このあと総勢6,000人もの患者の命を救いましたが、うち4,000人が15歳以下の子供でした。砂田は以後「心臓外科の第一人者」と評されるようになります。 昭和53年10月から香川医科大学の学長を務めてきた砂田は、10年後の昭和63年3月に学長を定年退官、その後は同名誉教授となり、後進の指導にあたりました。 半年後の同年11月21日、岡山で弟子たちによる、砂田の叙勲と喜寿を祝う祝賀会が開かれました。砂田は教え子たちに囲まれて、終始満足でした。翌日、砂田は親戚の葬儀に出るべく、砺波へ里帰りに向かいました。その途中の新幹線の車内でぐったりとしていた砂田は、新大阪駅から救急車で病院へ運ばれます。享年76、突然の他界でした。
|
|
/DBIMG/COLUMN/000000_382_1.jpg
★心臓外科の名医、砂田輝武は砺波の田園風景が大好きでした。
★心臓外科の名医、砂田輝武は砺波の田園風景が大好きでした。
|