となみ野ストーリー 第18回.城端から京の伝統産業に挑んだ男
●「京」で商売の原点を学ぶ 京都市左京区にある川島織物セルコンは、着物や帯、カーテンやホールの緞帳、自動車や電車の座席シートなどを作っています。この会社は、城端町出身の川島甚兵衞によって創業されました。 甚兵衞は、文政2(1819)年に城端で生まれました。幼いころに両親が亡くし、祖母に育てられますが、このころには城端の東上町にあった油屋に奉公していました。主人は「京で修業を積み、一人前の商人になるべきだ」と彼によく言って聞かせました。 13歳になったある日、決意に満ちた彼は京へ出発しました。紅粉屋に身を寄せ、15歳で金庫出納番を任され、主人から大変な信任を得ますが、18歳の時に自分の親代わりだった店の主人が突然他界、彼は毎日衣料や野菜の行商などに勤しみ、主家の再興を願い続けました。 そんな折、たまたま募集のあった悉皆屋(着物の総合プロデュース業)の平丸屋嘉平に奉公するチャンスを得ます。そして6年近く務めた彼は、25歳で呉服悉皆業「上田屋」を開業し、独立します。
●京都の中心地に店を構える! 天保14(1843)年、甚兵衞は京都の中心地・室町に店を構えました。単にモノを仕入れて販売するだけではなく、自ら新しい製品を考案し、それを下請けの機屋で織らせるなど、画期的なアイデアを生み出しました。 ところで甚兵衞は、常に倹約に励み、貧しい人たちに金を惜しみなく遣いました。仏のご加護を想い貧民にお粥や、年始には餅をふるまったりしました。 明治に入り都が東京へ移ると、公家衆を得意先としていた「西陣」の織物業者は、その被害をまともに被りました。生活に困った織物業者は、粗悪品を多く流通させ、京の伝統を守り続けてきた「西陣織」の価値を、どん底まで下げてしまいます。甚兵衞はこのことを憂い、西陣織の再興を訴え続けました。 明治12年3月、甚兵衛は激動する世の中を見守りながら61年の生涯を閉じました。
|
|
/DBIMG/COLUMN/000000_383_1.jpg
★城端に今でも残る大きな杉の木。「文次郎(川島の幼名)杉」と呼ばれています。
★城端に今でも残る大きな杉の木。「文次郎(川島の幼名)杉」と呼ばれています。
|