となみ野ストーリー 第46回.下町ルネッサンスを実現した男
●川に育まれて… 墨田区長として、隅田川を中心に据えたまちづくりを進めたのが山ア榮次郎です。 山アは、明治44(1911)年4月17日に西礪波郡西野尻村上川崎(現在の南砺市上川崎)で生まれました。幼い頃の彼は、はにかみ屋で甘えん坊な性格の少年でした。彼の遊び場は、家のすぐ近くを流れる清水川でしたが、そうした川に対する愛着が、彼の後世に大きな財産となります。 小学校を卒業した昭和2年4月、山アは福野町役場に就職します。しかしさらなる自分の可能性を見出そうと、22歳の時に友人を頼って上京します。その後は目白商業学校(現在の目白大学)で法律を学び、東京市向島区役所の臨時職員となります。 昭和24年暮れ、ソ連での抑留生活を終えた山アは、墨田区役所(向島区と本所区が合併して誕生)に復職します。そして同38年には、墨田区の助役に就任します。 昭和49年2月、区議会の圧倒的な支持を得て墨田区長に就任します。翌50年より区長職は公選となりますが、広く区民の衆望を背に初当選を果たします。
●「すべての人とは皆兄弟」 公選で墨田区長に就任した山アは、「区民の目線でものを見る」という姿勢を打ち出し、どんな小さな集まりや催しもいとわず顔を出し、区民との触れ合いを大切にしました。そうした彼の姿勢は、多くの区民の心をつかみました。 山アはまず昭和53年に、17年間途絶えていた「隅田川花火大会」を復活させ、東京の風物詩に新たな一ページを加えました。翌年には、全国に先駆けて「不燃建築物建築助成制度」をスタートさせます。 さらに彼は、蔵前に一時移転していた国技館を、再び相撲の発祥地・両国に建設することを提案します。東奔西走の末、同60年1月に新・国技館が完成しました。 昭和61年の暮れから風邪気味だった山アは、慌しい仕事が原因で体調を崩し、翌年1月入院します。そして闘病生活を続ける中、2月3日に75年の生涯を閉じます。
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山崎榮次郎
山崎榮次郎
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