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2015/6/1 2015/7/1 となみ野ストーリー 第20回.五箇山の隆盛を築いた男 ●五箇山の秘酒「三笑楽」
 秘境のお酒として知られる「三笑楽」は、もともと村人が毎日の晩酌や冠婚葬祭などで飲むものとして、こつこつと造られていました。創業は明治13年で、山崎宗七によって創業されました。
 さて宗七の跡に家業を継いだのが、今回ご紹介する山崎宗繁です。宗繁はお酒の味の向上を求めて研究を続け、交通事情の悪さから鮮度がうまく保たれなかった三笑楽を、販路拡大することに努めました。山崎家は代々加賀藩から村肝煎(村の世話役のような仕事)を命じられていました。宗繁の父宗七は、特産の繭の仲買商人として、岐阜の白川まで手を広げていました。このため山崎家は、金融業や酒造業を営むほどにまで隆盛する家となっていました。
 山崎宗繁は明治6年、南砺市上梨で生まれました。宗繁14歳の時、父が他界したため、すぐ実家へ戻って家業を継ぎます。家業を継いだといっても、番頭が財産のほとんどを持ち出していて、宗繁はほとんど無一文のような状態から財産を築いていきました。

●新しいものに積極的に取り組む
 もともと本を読むことが好きで、向学心あふれる青年宗繁は、東京にあった役人を養成する講習会にも積極的に参加しました。英語の重要性を意識していた彼は、通信教育などで英語を独学しました。また当時に五箇山には医者がいなかったことに不便を感じていた宗繁は、自分で医学書を取り寄せて勉強し、明治25年には製薬免許を取得します。薬を自ら調合したほか、村に生える薬草を調合し、村の病人たちに無償で分け与えました。間もなく上平・細島出身の中谷豊充が、平村の下梨で病院を開業したため、五箇山で唯一薬の斡旋をしていた宗繁は身を引きます。
 その後、五箇山の産業を活性化させるべく、当時家内工業だった養蚕や製糸の事業に尽くします。
 五箇山の産業の発展に尽くした山崎宗繁は、昭和17年に、村民が見守る中で67年の生涯を閉じました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2015/6/1 次回更新日:2015/7/1
となみ野ストーリー 第20回.五箇山の隆盛を築いた男

●五箇山の秘酒「三笑楽」
 秘境のお酒として知られる「三笑楽」は、もともと村人が毎日の晩酌や冠婚葬祭などで飲むものとして、こつこつと造られていました。創業は明治13年で、山崎宗七によって創業されました。
 さて宗七の跡に家業を継いだのが、今回ご紹介する山崎宗繁です。宗繁はお酒の味の向上を求めて研究を続け、交通事情の悪さから鮮度がうまく保たれなかった三笑楽を、販路拡大することに努めました。山崎家は代々加賀藩から村肝煎(村の世話役のような仕事)を命じられていました。宗繁の父宗七は、特産の繭の仲買商人として、岐阜の白川まで手を広げていました。このため山崎家は、金融業や酒造業を営むほどにまで隆盛する家となっていました。
 山崎宗繁は明治6年、南砺市上梨で生まれました。宗繁14歳の時、父が他界したため、すぐ実家へ戻って家業を継ぎます。家業を継いだといっても、番頭が財産のほとんどを持ち出していて、宗繁はほとんど無一文のような状態から財産を築いていきました。

●新しいものに積極的に取り組む
 もともと本を読むことが好きで、向学心あふれる青年宗繁は、東京にあった役人を養成する講習会にも積極的に参加しました。英語の重要性を意識していた彼は、通信教育などで英語を独学しました。また当時に五箇山には医者がいなかったことに不便を感じていた宗繁は、自分で医学書を取り寄せて勉強し、明治25年には製薬免許を取得します。薬を自ら調合したほか、村に生える薬草を調合し、村の病人たちに無償で分け与えました。間もなく上平・細島出身の中谷豊充が、平村の下梨で病院を開業したため、五箇山で唯一薬の斡旋をしていた宗繁は身を引きます。
 その後、五箇山の産業を活性化させるべく、当時家内工業だった養蚕や製糸の事業に尽くします。
 五箇山の産業の発展に尽くした山崎宗繁は、昭和17年に、村民が見守る中で67年の生涯を閉じました。


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山崎宗繁
山崎宗繁


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