となみ野ストーリー 第52回.冷北の地に稲の穂を重くした男
●神様の申し子と言われて… 明治以降、富山から多数の人々が新天地・北海道に渡り、入植・開墾に精を出しました。その北海道の地で稲作の普及につとめたのが山崎永太です。 山崎は明治8年10月、礪波郡山野村坪野(現在の南砺市坪野)で生まれました。彼は生来身体が虚弱でしたが、4歳にして漢学を学ぶという天才ぶりを発揮、村人たちは「あれはきっと神様の申し子だ」と噂しました。そして8歳で山崎家の養子となります。 明治21年、山崎が21歳の時、父が突然この世を去り、一家は彼の双肩にかかります。この頃、北海道開拓に関する新聞記事を見た彼は、親類縁者を説得して回ります。そして同30年、23歳の山崎は母と弟妹3人を伴って船路に着きます。 荒海の旅を終えて、小樽から栗沢の地に降り立った山崎は、うっそうとした巨木の密林、丈なす熊笹やクマ、キツネなどを目にし、想像を絶する光景に驚きます。そんな中でひたすら開墾に打ち込んだ彼は、3年後には鷹栖村に転住し、20haの未開地の開墾に取り組みます。 ●北海道を稲の穂で染める 小さい頃、水たまりに落ちた苗を植えて楽しんだ時、たまたま畑の雑草と一緒に植えると元気に育ったことを思い出した山崎は、温床にモミを下植します。すると秋には予想通り多くの稲が実ります。明治39年創案された水稲の温冷床育苗法は、後世に稲作技術の世界的革命といわれ、冷害に悩む農民たちに希望と勇気を与えました。そしてついに「山崎糯(もち)」が発見され、北海道の稲作は格段の発展を遂げました。 それから時を経た昭和23年、士別町では開町50周年記念式典が挙行され、山崎は農事功労者として表彰されます。続いて同年11月には、知事から開拓功労者としても表彰されました。こうした功績を称え、士別市は彼を名誉市民第一号に推挙しました。それから間もなくの同年12月16日、安らかな表情を浮かべ、静かに眠るように85年の生涯を閉じました。
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山崎永太
山崎永太
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