となみ野ストーリー 第55回.兄弟愛で『商い』を楽しんだ男
・想像を絶する痛みに絶えて 自然災害が発生した地域でよく見られる仮設住宅などを製作・販売するのが、金沢を拠点とする音頭金属です。同社を創立した音頭作次は、傷痍軍人の身ながらも、経営の第一線に立ち続けました。 音頭は大正6年2月、西礪波郡鷹栖村(現在の砺波市鷹栖)で生まれました。祖父は藍染職人、父は精米所を経営していました。小学在学中から好成績を修めていた彼は、先生から近くの中学への入学を勧められますが、商売が面白そうだと考えた彼は、金沢の金物店へ奉公に出ることを決意します。そして来客との応対ぶりを見ていた主人の高橋孝治は彼の商才を見出し、昭和12年に高橋のバックアップで鋳造所を設立します。 日中戦争勃発に伴い、音頭へも充員召集の報せが届き、やむを得ず他へ事業を譲渡し、仏領インドシナ(ベトナム)へ向かいます。 その戦場でのこと、突然音頭の頭上に多数の爆弾が降りかかります。気付いた時には左手の腕から下がちぎれ、右足も大腿骨がはみ出ていました。生死をさまよった末、左手と右足切除の大手術を受けました。 ・未完の自叙伝に思いを残して… 戦後間もなく、国内に「物価統制令」が施行され、物を自由に売買できなくなりました。金属材料が極端に不足し、困り果てた音頭は、義足と杖に頼る身でありながら東京の闇市場へ買い出しに出かけ、トタン板やゴムベルトなどを仕入れ、金沢で売りさばいてその苦境を乗り越えました。そうした地道な苦労を重ねた末、昭和24年に金属加工会社として株式会社音頭商会を設立、東京を拠点に全国展開を果たします。そして兄弟3人が力を合わせて会社を経営し、その後各々が独立して現在に到っています。 生前音頭は「自叙伝を書いているんだ」とよく話していました。幼少時代の思い出を愛郷・砺波の方言でチラシに裏書きしたものでしたが、ついにその完成を見ることなく、昭和59年1月に67年の生涯を閉じました。
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音頭作次
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