となみ野ストーリー 第56回.雲上人を心から敬愛し続けた男
●炬燵の中で結婚式の素案作り 天皇陛下は昭和34年4月10日にご結婚されましたが、当時宮内庁秘書課長としてこの式典執行に尽力したのが、今回ご紹介する並木四郎です。 並木は大正3年1月、東礪波郡中野村新明(現在の砺波市新明)で生まれました。小学校を卒業後、旧制礪波中学校(現在の砺波高校)、旧制新潟高校、東京帝國大学法学部へ進学し、行政官を夢見ていました。卒業後は一時期、新潟鉄工所に就職しますが、一念発起して高文の勉強に取り組み、見事合格した並木は、昭和18年に宮内庁へ入ります。以後、用度課長兼大膳課長を歴任しました。 昭和33年の秋、皇太子明仁親王殿下のご結婚が発表されます。お妃候補が誰かと取り立たされる中、並木の自宅へも多数の報道陣が押し寄せます。しかし政治家はおろか家族にすら、お妃候補の名前を口外できない苦しい時を過ごしました。結婚式の素案作りを担当した並木は、自宅のコタツにあたりながら、昭和天皇ご結婚時の先例をつぶさに調べ上げ、国民感情になじむ素案を考えました。 ●成田開港と高松塚古墳をめぐって 昭和39年に皇室経済主管となった並木は、皇太子夫妻の住まいとなる新宮殿の築造を担当し、新時代の皇室のあり方を模索しました。その後、千葉県成田市にあった宮内庁の御陵牧場に新空港建設計画が発表された際、事務方として栃木県への移転を決定しました。 肩の荷を降ろす間もなくの同47年3月、奈良県にある高松塚古墳の調査中に、鮮やかな壁画が見つかり、大騒ぎとなります。歴史調査の観点から、この壁画を調査・発掘して公開すべきだという声が学界から挙がりますが、当時書陵部長だった並木は、国会で激しく追及されました。 30年近く単身赴任を続けた並木は、昭和49年に宮内庁を退職して富山へ戻り、並木薬品代表取締役と県人事委員会委員をつとめました。そして平成4年6月、78年の生涯を静かに閉じました。(文中敬称略)
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並木四郎
並木四郎
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