となみ野ストーリー 第59回.剣の道を極めた男
●三度の飯よりも剣道好きに… 昭和25年10月、「第1回富山県剣道大会」が開催され、当時GHQが武道を禁止する中、「なんとしても剣道を復活させたい!」と願い続け、富山県における剣道復活に尽力したのが飯原藤一です。 飯原は明治33年4月、西礪波郡津沢町新西(現在の小矢部市新西)で米屋を営む飯原栄次郎の四男として生まれました。幼い頃から毎日のように竹刀にみせた棒で木を叩くなどして剣道の練習に励み、その表面は剥けるだったといいます。 大正2年4月に県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に入学した彼は、憧れの剣道部に入部します。同7年4月、飯原は本格的に剣道の道を極めるべく、京都武徳専門学校に進学します。翌年1月の稽古初めでは、7人倒すという快挙を成し遂げ、その褒美として短刀一振を授与されています。 ●真の「剣聖」と言われて 大正11年4月、武専を卒業した飯原は、剣道の強さと実直な人柄を買われ、明治維新の功労地である鹿児島や山口の中学校へ剣道師範に招かれます。そして3年後に故郷・県立神通中学校(現在の県立富山中部高校)へ赴任した飯原は16年間の在職中に、剣道部を数本の優勝旗を常に保持し続けるまでに育て上げます。併せて彼は、官立富山薬学専門学校(現在の富山大学医学部)、歩兵三五連隊、旧制富山高等学校(富山大学の前身)等の師範も兼務し、幾多の人材を送り出しました。 同34年11月15日、「飯原先生剣道8段 顕彰祝賀剣道大会」が砺波で開催されました。ここには武専時代の同級生・黒住竜四郎8段、中学の2年後輩で、日本剣道連盟副会長・大谷一雄が招かれたほか、教え子らから胸像が贈られました。しかしこの頃から飯原の身体は、病魔に冒されつつありました。 飯原は6年間の闘病生活の末、同41年3月に65年の短い生涯を閉じます。葬儀・告別式には多くの弔問客が訪れ、常に笑顔を絶やさず相手を思いやる剣聖・飯原の死を惜しみました。
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飯原藤一
飯原藤一
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