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2013/6/1 2013/7/1 となみ野ストーリー 第67回.弁舌で聴衆を魅了し続けた男 ・村長の一言から、政治の道へ
 砺波市で雄弁家として、現在も語り継がれているのが山本良勝です。山本は大正4年3月、東礪波郡柳瀬村(現在の砺波市柳瀬)で生まれました。県立礪波中学校(現在の砺波高校)へ進学、5年生の時には平泳ぎで北陸5県のチャンピオンとなります。
 昭和7年に礪波中学を卒業した山本は、地元の小学校で代用教員として働き始めます。しかし給与待遇に差別があったと知った彼は軍人を志し、補充二等兵として召集された後、陸軍幹部候補生として陸軍士官学校に入学します。卒業後は第九師団に所属し、軍人としての大半を満州で過ごし、台湾で終戦を迎えます。
 戦後故郷へ戻った山本は、地元の名士・佐藤助九郎(三代目)の勧めで、佐藤工業に入社します。その傍らで柳瀬村助役や村議会議員を兼務した彼は、砺波市への合併後は16年、砺波市議会議員を務めました。
・難工事「黒四ダム」に従事
 雄弁家であり、「秀でた政治センス」を持っていた山本は、多くの政治家と交流を深めます。特に松村謙三とは、きわめて深い信頼関係を築きました。
 昭和31年、佐藤工業ほか大手建設会社4社は、黒部ダムの建設に着手します。事務課長だった彼は、映画『黒部の太陽』について、他社ばかりを取り上げていたことに腹を立てます。昭和44年に大阪支店長・取締役に就任後は、常務、専務取締役、代表取締役副社長を歴任し、同63年には副会長に就任します。また業界団体の世話役も引き受けていました。
 平成3年8月、山本が柳瀬村の助役時代から仕えてきた、佐藤欣治が亡くなります。当時代表取締役相談役で葬儀委員長をつとめた彼は、「常に志を高くし、信じることには勇往邁進される経営の姿勢と、豊かな包容力と情誼に厚い人となりは、私どもの等しく敬愛してやまない」と弔辞を読み上げました。
 晩年臥せがちとなった山本は、同11年11月、砺波の自宅で84年の生涯を閉じました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2013/6/1 次回更新日:2013/7/1
となみ野ストーリー 第67回.弁舌で聴衆を魅了し続けた男

・村長の一言から、政治の道へ
 砺波市で雄弁家として、現在も語り継がれているのが山本良勝です。山本は大正4年3月、東礪波郡柳瀬村(現在の砺波市柳瀬)で生まれました。県立礪波中学校(現在の砺波高校)へ進学、5年生の時には平泳ぎで北陸5県のチャンピオンとなります。
 昭和7年に礪波中学を卒業した山本は、地元の小学校で代用教員として働き始めます。しかし給与待遇に差別があったと知った彼は軍人を志し、補充二等兵として召集された後、陸軍幹部候補生として陸軍士官学校に入学します。卒業後は第九師団に所属し、軍人としての大半を満州で過ごし、台湾で終戦を迎えます。
 戦後故郷へ戻った山本は、地元の名士・佐藤助九郎(三代目)の勧めで、佐藤工業に入社します。その傍らで柳瀬村助役や村議会議員を兼務した彼は、砺波市への合併後は16年、砺波市議会議員を務めました。
・難工事「黒四ダム」に従事
 雄弁家であり、「秀でた政治センス」を持っていた山本は、多くの政治家と交流を深めます。特に松村謙三とは、きわめて深い信頼関係を築きました。
 昭和31年、佐藤工業ほか大手建設会社4社は、黒部ダムの建設に着手します。事務課長だった彼は、映画『黒部の太陽』について、他社ばかりを取り上げていたことに腹を立てます。昭和44年に大阪支店長・取締役に就任後は、常務、専務取締役、代表取締役副社長を歴任し、同63年には副会長に就任します。また業界団体の世話役も引き受けていました。
 平成3年8月、山本が柳瀬村の助役時代から仕えてきた、佐藤欣治が亡くなります。当時代表取締役相談役で葬儀委員長をつとめた彼は、「常に志を高くし、信じることには勇往邁進される経営の姿勢と、豊かな包容力と情誼に厚い人となりは、私どもの等しく敬愛してやまない」と弔辞を読み上げました。
 晩年臥せがちとなった山本は、同11年11月、砺波の自宅で84年の生涯を閉じました。


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山本良勝
山本良勝


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