となみ野ストーリー 第71回.「世界の「空」を見つめ続けた男」 後篇
●「ヒヨコ」の親となる!? 「このまま居座り続けて、役所に迷惑はかけられない!」、自宅で療養していた若狭は退職して養鶏業に取り組もうと、ヒヨコ300羽を購入し、ヒヨコを従えての散歩を唯一の日課としました。騙されて雄鶏を買わされたことに気付きますが、最後の一羽まで大切に面倒を見続けました。 商才がないことを悟った若狭は、健康も回復したことから昭和28年に本省に復帰、その後は神戸海運局長などを歴任、同38年には海運局長に就任します。この時当時12社あった海運会社を6社に集約する大仕事を成し遂げ、同40年に事務次官となりました。 そんな矢先の同41年2月、札幌発東京行きの全日空機が東京湾に墜落します。しかし当時社長・岡崎嘉平太は、「中国と全日空のどちらを取るかと聞かれれば、迷わず中国を取る」と言い放ちます。その毅然たる態度を見た若狭は、自身のクビを賭けて守ろうとします。この一件でお互いを認め合うようになり、岡崎は初代社長と共に全日空へ招聘します。 運輸省を退官した若狭は日本海事財団の会長などを務め、同44年に顧問として全日空に入社、その後は副社長、社長に就任します。 ●故郷・砺波を思い続けて… 昭和51年2月、「ロッキード事件」が発覚し、同年7月に逮捕されます。彼は社長を辞めるつもりでしたが、質素で潔癖な人となりを知る社員たちは、「社長を信じています。辞めないで下さい!」と懇願します。そして同年12月には会長に、平成3年には名誉会長となり、名実共に「中興の祖」となりました。 故郷・砺波を生涯愛し続けた若狭は、チューリップの原産地であるトルコ共和国・ヤロバ市と砺波市との姉妹友好都市締結に尽くしました。他には北陸自動車道の路線決定や富山空港のジェット化、B&G海洋センターの誘致、安川地内の庄東センターの建設、富山全日空ホテルの建設も支援しました。そして同17年12月、91年の生涯を閉じました。
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若狭得治
若狭得治
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