となみ野ストーリー 第68回.日中の真の交流を願い続けた男
●無我夢中で物事に取り組む 昭和47年9月、日中両国は国交を回復しました。昭和30年から15年間、日中友好協会富山県支部連合会長をつとめた重松為治も、この日を待ち続けた1人でした。 重松は明治26年1月、東礪波郡油田村石丸(現在の砺波市石丸)で農業を営む平松家に生まれました。食べ盛りの兄弟11人を抱え、家の内情は苦しく、為治は小学校へ入る頃には農作業や家事を手伝う日々を送ります。卒業後に戸出小学校高等科へ進学した彼は、酒商だった伯父の家に住み込んで、店を手伝いながら勉学に励みます。しかし好成績だった彼を見ていた伯父は、高岡中学校への進学を勧め、富山薬業専門学校に進学します。 そんな折、学校の専任教授から富山で売薬業を営む旧家・重松家への養子縁組の話が持ち込まれ、結婚します。以後は大阪の道修町にある薬品会社で2年勤めた彼は、中国・上海に進出して薬種問屋を営んでいた養父を手伝うべく、大正6年に上海に降り立ち、その1年後には経営の舵取りを担うに到りました。 ●勤勉で実直な人々に感動する 戦争で関係悪化の一途をたどった日中両国の関係は、日系の重松大薬房も非難の対象としました。しかし社員たちは、家族のように包み込む重松に信頼を寄せ続けました。 昭和20年に終戦を迎えてからも上海に残留した彼は、引き続き会社の経営を担います。しかし富山の会社と自宅が空襲の被害を受けたことを知り、翌年日本へ引き揚げます。そして同24年、富山市で有限会社重松薬房(後のカサマツ)を創立、郷里で再出発を果たしますが、この頃には他社の販売網が張り巡らされており、徒手空拳の中からのスタートでした。「先見的商法」を訴えた彼は、医師に直接薬を売ることを提案、営業先を県外まで伸ばし、この結果富山県トップの薬卸会社に育て上げました。 会社は息子たちに任せ、緑化事業に取り組む生活を送った重松は、同57年3月に89年の生涯を閉じました。
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重松為治
重松為治
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