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となみ野ストーリー  

掲載日:2016年1月1日 次回更新日:2016年2月1日
となみ野ストーリー 第27回.根っからの実業家だった男

●どうしても組織になじめない!
 平成25年6月、トナミ運輸は創立70周年を迎えました。このトナミ運輸を田舎の一運送会社から、全国規模へと大きく飛躍させたのが綿貫榮です。
 綿貫は、明治13(1880)年4月に井波町で、神官の家に生まれました。綿貫家は代々井波八幡宮などの神職をつとめる名家でした。向学心旺盛な綿貫は15歳の時に、井波小学校の代用教員に任命され、その後は高等准教員、裁判所書記、県職員などをつとめますが、長くは続きませんでした。
 これらの仕事になじめなかった綿貫は、ついに30歳で県職員を退職、実業家の道を歩き始めます。そんな彼がまず着手したのは、砺波地方における鉄道事業でした。もともと地元民から鉄道敷設を望む声が挙がっていたことや、庄川を背景とする木材輸送などの増加に対する期待から、採算は充分になし得ると考えました。
 この後綿貫は金沢へ進出、『金沢新報』の経営に乗り出したり、石川県の鉄道敷設に協力したり、映画館を経営したりなど、多角的に事業を展開していきました。
 さらに綿貫は昭和6年より21年まで、また同27年から29年まで井波町長をつとめます。

●礪波運輸を日本一の運送会社に!
 昭和18年6月、砺波地域の運送会社が戦時統合し、礪波運輸(同37年トナミ運輸に変更)が設立されました。初代社長には娘婿の佐民が就任、悪路と雪に立ち向かいました。
その佐民は、戦後初の総選挙で衆議院議員となりますが、同25年9月に54歳という若さで他界、齢70になる綿貫が後継社長に就任しました。社長には就いたものの、綿貫は一地方の運送会社だった礪波運輸の経営には、あまり関心を示しませんでした。
しかし綿貫は、「礪波を天下一の運送会社にする!」と奮起、念願の東海道進出を果たします。北陸と関西・中京・東京を三角形で結ぶ構想を描き、その実現に尽くします。
 綿貫榮は、同40年3月7日、波瀾にみちた84年の生涯を閉じました。


綿貫榮


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