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となみ野ストーリー  

掲載日:2012年2月1日 次回更新日:2012年3月1日
となみ野ストーリー 第51回.繊維業界の発展を願い続けた男

●「信用」を重んじ、業績を拡大
 「日本経済を支えているのは、大多数の中小企業である」と主張し、中小企業が団結して協力しあうことを提案・実践したのが、旧城端町出身の岸加八郎です。
岸は明治21年、東礪波郡城端町出丸(現在の南砺市城端)で生まれました。祖父は城端で肥料問屋を営んでいましたが、父は独立して絹織物製造を始め、城端物産を設立します。この頃城端では、15社が絹織物をめぐって競合、共倒れになることを懸念した加八郎は、父に金沢への進出を促し、生糸や羽二重商を営む岸加市商店を開きます。
 大正9年に起こった世界大恐慌は、繊維業界を直撃します。同業者には契約を反故にする者も現れますが、岸は頑なに「信用第一主義」を貫き、製糸家との契約を誠実に守り、そのことで取引業者からの信頼を得ました。この後岸は、中小の産元商社が団結して織物生産を行い、大企業と対抗できる業界横断組合として「マルサン富士絹組合」を設立、商品にはMAブランドを付して品質管理を徹底しました。
●丘を越えて行こうよ♪
 昭和3年、欧米一周視察に出かけた岸は、織物見本を片っ端から買い集めます。それらを丹念に調べてみると、すべてに人絹(レーヨン)が使われていることに彼は気付きます。そして人絹への転換を決意します。その後は全国組織の業界団体の創立に力を尽くしました。
 終戦後の同20年12月、岸は石川県織物産業の復興のためにと、織物業界とは密接不可分の関係にある染色会社・倉庫精練の社長に就任します。そして自身が経営する岸商事株式会社も石川県トップの繊維産元商社に成長しました。
 昭和35年6月5日の午後、子会社で会議中だった岸は、突然の心臓マヒに襲われ、間もなく72年の生涯を閉じます。さて岸は、いつも宴席で藤山一郎のヒット曲『丘を越えて』を披露、医王山の向こうにある金沢に憧れていた青年時代を、懐かしく思い出していたのでしょうか?


岸加八郎


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