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となみ野ストーリー  

掲載日:2012年5月1日 次回更新日:2012年6月1日
となみ野ストーリー 第54回.誠実を信条とし続けた男

●教え子に夢を託して
 砺波市高波地区は、昭和28年の第二次合併により砺波市へ合併・編入されましたが、戸出地区と合併するか、それとも砺波町と合併するかで、大きな決断を迫られました。
この時力を尽くしたのが市山有三でした。
市山は明治33年11月30日、西礪波郡高波村江波(現在の砺波市高波)で生まれました。県立礪波中学校では、後の小矢部市長・広橋(桜井)与蔵と首席を争いました。大正7年4月、市山は富山県師範学校へ進学、教育者として歩み始めます。昭和8年には荒川小学校長に就任し、同24年6月に高波中学校長を最後に退職します。
 同22年4月、市山は教え子や教員らに推されて、富山県議選に立候補し、初当選を飾ります。しかし4年後の選挙では落選し、無念の涙をのみました。これに先立つ同23年には、岩川毅から中越印刷製紙の監査役就任を要請され、彼の右腕としてグループ発展の礎を築きます。そして同34年に再び立候補、岩川の後継者として立候補し、見事に雪辱を果たしました。
●「あなたは正直すぎる!」
 再度県議選に立候補した市山は、昭和38年4月の選挙戦最終日、演説会の壇上で、「ただただ皆様のあたたかいお力添えが嬉しくて…、」と言葉を詰まらせて挨拶、思わずもらい泣きをする支持者もありました。しかしこれが最後の演説になりました。
 誠実で実直な市山に対し「あなたは正直すぎる。『やれないことでもそのうちにやる』と言っておけばどうです」と支持者から言われますが、「ウソとハッタリは言えぬ。私は30年間、子供たちにそのことを教えてきた。できないことを今にもできそうに言って、相手を惑わせてはならない」と信念を貫きました。
 同38年7月28日、臨時県議会に出席した市山は間もなく体調を崩します。亡くなる4日前には、再び第一線に立つ決意を滲ませますが、同年9月23日、これからの活躍が期待される中で、62年という短い生涯を閉じました。


市山有三


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