トップ > ニュース >北日本新聞ニュース >10代農兵隊員 命からがら帰国 満州で多くの犠牲

北日本新聞ニュース

10代農兵隊員 命からがら帰国 満州で多くの犠牲
 
2020年8月19日 南砺市 くらし






 太平洋戦争末期に食料増産政策で満州(現中国東北部)に派遣され、多くの犠牲者を出した「在満報国農場隊」の慰霊碑が、砺波市の寺にある。建立から70年以上がたち、老朽化が進んでいた慰霊碑は今年、元隊員らによって修復された。戦後75年を迎え、修復作業に携わった元隊員、島田直正さん(90)=南砺市井波=に満州での過酷な体験を聞いた。(堀佑太)

 富山県は1944年、国の食料増産政策に基づき、14歳以上の少年らでつくる「県青少年農兵隊」を結成。45年、ソ連国境に近い佳木斬(チャムス)郊外に「報国農場」を整備するため、81人を派遣した。数人の指導者を除き、ほとんどが10代だった。現在の砺波、南砺両市に当たる地域からは21人が渡った。

 島田さんは同年3月に16歳で派遣され、氷点下25度を下回る寒さの中、水田係として働いた。収穫を終える10月ごろに帰国する予定だったが、稲穂が実り出した8月上旬、ソ連が満州に侵攻。「今年帰れぬ」と、家族に電報を打ち、農場を引き揚げた。

 隊員たちは汽車で新京(現長春)や奉天(現瀋陽)へ移動。逃避行する間、栄養失調や病気で亡くなる隊員が相次いだ。

 ソ連の占領下だった新京では、空腹のあまり収容所にあったグリセリンを誤って飲み、急性大腸炎で6人が亡くなった。「空腹で死ぬというのは銃で撃たれるよりもっとひどい。自分で頬をたたき、気合だけで生きていた」

 移動する先々で大工や弾薬の運搬など日雇いの仕事をして生活し、46年7月に帰国。隊員81人のうち、23人が現地で亡くなり、衰弱していた十数人が帰国後に命を落とした。「いつ何時自分が死ぬか分からない状況だった。満州に行ったことは一日たりとも忘れたことはない」

 慰霊碑「待君之碑」は、砺波市宮村の景完教寺(けいかんきょうじ)の境内にある。戦時中、同寺が農兵隊の宿舎として使われたことから、犠牲者を弔おうと47年、元隊員や遺族が建てた。

 数年前から老朽化で石碑がひび割れるなど、倒壊の危険があった。今年6月に島田さんと元隊員の酒井一成さん(90)=射水市青井谷(小杉)=、隊員の弟の江田健三さん(78)=同市橋下条(同)=がコンクリートの資材を流し込むなどして修復した。

 島田さんは満州へ派遣される手当として、当時の教員の月給に相当する40円が国から毎月支給されると聞いていたが、一銭も支給されることはなかった。「国にうまく利用された」との思いが今も胸に残る。

 「戦争だけは絶対にしてはいけない。これからも慰霊碑を大切に守り、満州へ行った体験を若い人たちに伝えていかなければいけない」と話している。

© 北日本新聞
 
Copyright (c) Tonami Satellite Television Network All rights reserved.