となみ野ストーリー 第25回.日本一の橋梁メーカーの礎を築いた男
●祖父と一緒に遊び・技術を学ぶ 福野駅そばにある川田工業は、多くの橋梁を提供してきました。この川田工業を創立したのが川田忠太郎です。 川田は、1887(明治20)年に栃木の刀鍛冶職人の家に生まれました。母方の祖父は藩の御番鍛冶、川田は祖父の鍛冶場の作業場が好きで、毎日祖父を訪ねて行きました。祖父は孫と一緒に仕事することが、とても楽しみでした。 青年期になった川田は、村の山向こうにあった古河鉱山足尾鉱業所内にあった工場に勤めます。ここで銅の掘削中に折れてしまった鑿や、短くなってしまった鑿を鍛接する作業に取り組みました。川田の鍛接は器用なものでした。しかし「自分は鍛冶職人だ」とプライドを持っていた川田は、決して満足していたわけではありませんでした。
●福野へやってくる 足尾の工場を退社した川田は、鍛冶職人の道を極めるべく、住む場所を転々とします。20年の放浪生活ののちに行き着いた所は、妻の生まれ育った福野でした。 大正11年5月2日、その福野にて川田鉄工所を創立します。本格的な工場を持った川田は、早速刃物を主体にした町鍛冶(野鍛冶)を始めます。鍛冶をしたかった川田は大変喜びますが、知人や得意先があったわけではなく、顧客の獲得に苦労します。 その川田は息子たちに「俺は刀鍛冶の出だから、鋼の溶接には慣れている。鋼の鍛え方、接ぎ方の中でも、和鋼である刀は最も難しい。それで鍛えられてきたのだから、洋鋼だって同じこと、他の連中がいくら夢中になっても、俺の接いだのにはかなわない。そうした接ぎ方をお前達にだけに教えてやろう」と語りました。鉄骨や橋梁、製罐などのように、焼かずにたたいて物を作ることは「外道」であると考えていました。 川田は、愛息忠雄が栃木県の野崎に工場を建てる矢先だった昭和34年3月17日、70年の生涯を終えました。
|
|
/DBIMG/COLUMN/000000_1466_1.jpg
川田忠太郎
川田忠太郎
|