となみ野ストーリー 第30回.五箇山の『赤ひげ先生』
●松村謙三との深い親交 五箇山は大正初めまで無医村でした。急病人が出た時には城端まで行かねばならず、多くの命が道中で絶えました。そんな窮状をみて「五箇山に病院を作り、医者を置かなければ」と考えたのが、上平村の中谷豊充です。中谷は常に患者との信頼関係を大切にし、村民から大変慕われました。 中谷豊充は、明治18年6月5日に東礪波郡上平村細島(現在の南砺市細島)で、漢方医中谷豊平の長男として生まれました。幼少期の中谷はとても優しい性格で、植物や昆虫などをじっと見つめているような少年でした。同32年には県立高岡中学校に入学、ここで「無二の親友」となる松村謙三に出会います。松村は中谷より2年先輩ですが、気の合う2人はよく語り合いました。 医者を志した中谷が郷里に戻ってきたのは、大正5年。五箇山に近代医学を学んだ若い青年医がやってきたということで、人々は大変喜びました。中谷は早速平の下梨に病院を開業、専門は内科でしたが、外科や神経科といった専門外の分野の患者まで、丁寧に診察しました。開業した翌年には、上平村の人々の懇望に応えて、細島の生家でも週一度診療を行っています。
●村長に推される 五箇山で病院を開いて6年目の大正11年、上平村長に推された中谷は、上平村長に推されました。中谷は医療に専念したいと考えていましたが、周囲の人からの再三にわたる要請でやむなく受け入れました。この頃上平村では、南部と北部による主導権争いがありました。就任後間もなく行われた村議会では、早速両者の意見が対立しますが、その場をうまく収めます。 昭和20年5月、中谷は「風邪をひいた」と言い、細島の自宅に戻って寝込むようになりました。中谷本人は「ちょっと風邪をひいたくらいだから大丈夫」と言い、周囲の声に全く耳を傾けませんでした。 そして一週間ほど寝込んだ末の5月25日、肺炎のために60歳でこの世を去ります。
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中谷豊充
中谷豊充
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