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2014/7/1 2014/8/1 となみ野ストーリー 第9回.東京中央郵便局の建築を手掛けた男 ●逓信省の入省まで
JR城端線の福野駅近くにある西方寺の中に、南砺市旧福野町立の図書館だった授眼図書館がありました。こちらはもともとお寺の私設図書館でしたが、戦後は福野町の図書館として運営されてきました。現在はヘリオスの中に図書館が移りましたが、現在も西方寺に建物だけは残っています。この図書館の設計をしたのが、旧福野町出身の建築家吉田鉄郎でした。
 吉田鉄郎は、明治27年(1894)5月、福野町で薬種商を営んでいた五島寛平の三男として生まれました。幼いころから、粘土や石膏を固めた素材を使って自画像を作ったり、デッサンの勉強に勤しみました。その後旧制四高(現在の金沢大学)に進学、卒業後は東京帝国大学の建築学科を受験するものの、あえなく不合格となります。困った鉄郎は、実の兄寛平に相談します。兄は当時親交の深かった寺田寅彦に相談することを進め、そのかいあって東京帝大理科大学理論物理学科へ入学、翌年には建築学科に転籍します。

●全国の郵便局を設計する!
 吉田は大正8年(1919)に同校を卒業し、めでたく逓信省(郵政省、現在の総務省)に勤務します。逓信省を選んだのは実家が郵便局だったことなどがありました。間もなく吉田仁平の娘と結婚し、鉄郎は吉田姓となります。
 さて入省後、彼は逓信省の建物、つまり全国各地の郵便局の建築に取り組みます。東京中央郵便局や大阪中央郵便局のほか、実家で運営していた福野郵便局の設計にも取り組みました。昭和19年には逓信省を退官、戦後は日本大学の教授となり、日本の古建築の研究に取り組みました。
 吉田鉄郎は、「逓信建築」の伝統を形成した人物と高く評価され、昭和31年に62歳の若さでこの世を去りました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2014/7/1 次回更新日:2014/8/1
となみ野ストーリー 第9回.東京中央郵便局の建築を手掛けた男

●逓信省の入省まで
JR城端線の福野駅近くにある西方寺の中に、南砺市旧福野町立の図書館だった授眼図書館がありました。こちらはもともとお寺の私設図書館でしたが、戦後は福野町の図書館として運営されてきました。現在はヘリオスの中に図書館が移りましたが、現在も西方寺に建物だけは残っています。この図書館の設計をしたのが、旧福野町出身の建築家吉田鉄郎でした。
 吉田鉄郎は、明治27年(1894)5月、福野町で薬種商を営んでいた五島寛平の三男として生まれました。幼いころから、粘土や石膏を固めた素材を使って自画像を作ったり、デッサンの勉強に勤しみました。その後旧制四高(現在の金沢大学)に進学、卒業後は東京帝国大学の建築学科を受験するものの、あえなく不合格となります。困った鉄郎は、実の兄寛平に相談します。兄は当時親交の深かった寺田寅彦に相談することを進め、そのかいあって東京帝大理科大学理論物理学科へ入学、翌年には建築学科に転籍します。

●全国の郵便局を設計する!
 吉田は大正8年(1919)に同校を卒業し、めでたく逓信省(郵政省、現在の総務省)に勤務します。逓信省を選んだのは実家が郵便局だったことなどがありました。間もなく吉田仁平の娘と結婚し、鉄郎は吉田姓となります。
 さて入省後、彼は逓信省の建物、つまり全国各地の郵便局の建築に取り組みます。東京中央郵便局や大阪中央郵便局のほか、実家で運営していた福野郵便局の設計にも取り組みました。昭和19年には逓信省を退官、戦後は日本大学の教授となり、日本の古建築の研究に取り組みました。
 吉田鉄郎は、「逓信建築」の伝統を形成した人物と高く評価され、昭和31年に62歳の若さでこの世を去りました。


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24時間、年中無休で営業していた「東京中央郵便局」。中央には時計がありますが、これも吉田のこだわりなのでしょうか?
24時間、年中無休で営業していた「東京中央郵便局」。中央には時計がありますが、これも吉田のこだわりなのでしょうか?


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