となみ野ストーリー 第32回.日本初のオリンピックスケーター
●独学でスケートを学ぶ 昭和7年の第3回冬季オリンピックに、日本からフィギュアスケートの選手が2名参加しました。慶応義塾の帯谷竜一と老松一吉です。第4回大会にも出場した老松は、草創期のスケート界をリードしました。 老松は、明治44年10月30日に東礪波郡出町中神(現在の砺波市中神)で生まれました。中村家の養子となった彼は、幼少時より大阪で過ごしました。彼がスケートに目覚めたのは、中学2年の時。友人から「気晴らしにアイスリンクへ行かないか」と誘われたことがきっかけでした。 さてこの当時、日本のフィギュアスケートのレベルは、世界の舞台に立つにはほど遠く、老松はソ連のスケーター・パニンが書いた本を、唯一のバイブルにしました。 昭和5年1月の第1回フィギュアスケート選手権競技大会で、老松はわずか一年という経験ながら5位と大健闘します。しかしレベルの差を肌身で感じた彼は、一層練習に励み、翌年の第2回大会で見事優勝します。そしてオリンピックで、自分の思い描いたスケートを披露した老松は9位に入賞、19才の時のことでした。
●未来のスケーターを育てる 第4回大会にも出場した老松は、残念ながら20位にとどまりました。この大会で旗手をつとめた老松は、日本代表として堂々と行進しました。 戦後の昭和23年、不幸にも結核にかかった老松は、故郷へ戻り静養に励みます。回復後はプロに転向、3年後には大阪スケート連盟の推薦でスポーツセンターに講師として招かれ、女性や子供たちにスケートを教えました。老松にとっては、スケートを始める子供たちが、どんどん成長していく姿を見ることがとても楽しみでした。 さて老松はカメラ、絵、クラシック音楽鑑賞、俳句など多彩な趣味の持ち主でした。とくに俳句を詠むことが好きで、よく遠征先や自宅で思いついた句を書き綴りました。 平成13年3月24日、老松は89歳の生涯を終えました。
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老松一吉
老松一吉
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