となみ野ストーリー 第38回.『ネクタイ』と共に生きた男
●「都会へ出て一旗あげんにゃ!」 『エールック』、『ピエールカルダン』…。これらは朝倉商事が扱うネクタイのブランドです。同社は、庄川町出身の朝倉外治が一代で築き上げました。 朝倉は、明治34(1901)年12月25日に東礪波郡種田村古上野(現在の砺波市庄川町古上野)で生まれました。父は朝倉に、郷里の立身出世者の話をよく聞かせ、「田舎で百姓をやっていてもダメだ。都会へ出て一旗あげなあかん」と諭します。大正8年に福野農学校を卒業した朝倉は、東京のネクタイ卸店に奉公に出ます。一本でも多くのネクタイを売ろうと考えた朝倉は、百貨店へ足繁く通い、とうとう担当者から「ネクタイの見本を二百本ほど置いていきなさい」との言葉を引き出します。朝倉はこの実績を高く評価され大阪支店へ転勤、翌年には支店長に任命されます。
●故郷をこよなく愛して… 時は昭和に入り戦争へ。「今日も(ネクタイが)あまり売れなかった。これからどうすれば?」、朝倉は日々悩みます。そのうち販売会社の統合が進められ、大阪支店は大阪山治という会社組織となり、朝倉はその社長に就任します。 昭和21年5月、大阪に朝倉商事を設立(大阪山治より社名変更)します。朝倉は、政府がストックしていた生地の払い下げに成功し、戦後の混乱期を乗り切ります。こうした朝倉の情熱的な活動は、その後の発展の起爆剤となりました。 多忙な朝倉でしたが、一方で故郷のことをずっと気に留めていました。とりわけ初代町長・藤崎博明と深い親交を結び、同27年の合併の際にも、藤崎から相談を持ちかけられています。そんな彼は出身の小学校に、ピアノや教材を寄付したり、「町のために」と多額を寄付、図書館の本・資料の購入に充てられました。 さて昭和54年、朝倉は経営を長男に譲り、会長となります。それから間もなく、朝倉は多くの人々に惜しまれながら、77年の生涯を閉じました。
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朝倉外治
朝倉外治
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