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2012/9/1 2012/10/1 となみ野ストーリー 第58回.日本の『翼』を世界に広めた男 ●故郷に残した爪跡に苦悶する
 戦後、開発・製造された国産民間旅客飛行機「YS−11」。その後継機開発を進めるべく設立された民間輸送機開発協会で、専務理事として活躍したのが若杉禮三です。
若杉は大正4年11月、東礪波郡雄神村庄(現在の砺波市庄川町庄)で生まれました。県立礪波中学校、彦根高等商業学校(現在の滋賀大学経済学部)を卒業後、昭和13年に三菱へ入社します。それから間もなく、彼は福光・若杉写真館の長女と結婚しました。
 この頃から日本は戦争の道を歩み出し、彼がいた名古屋航空機製作所もその渦中に巻き込まれます。このため工場の疎開が急務となり、大門・井波・福野等の元紡績工場へその機能が移されることになりました。その後は、故郷・雄神村に地下工場が建設されることになり、昭和20年3月からトンネル掘削工事が始まったものの、途中のままで終戦を迎えます。
 敗戦後の残務整理を終えて故郷へ戻った若杉は、緑いっぱいだった山麓の変貌ぶりを目の当たりにし、ただ愕然としました。
●日本の航空技術を世界へ!
 さて三菱重工名古屋航空機製作所主管だった同45年、若杉はYSの後継機開発のために設立された開発協会に出向しました。この頃開発協会では「YX/XXX」の開発が計画され、彼はボーイング社との交渉役として、契約締結に尽くしました。
 さて技術的には成功した日航製でしたが、海外販売等の失敗で赤字を重ね、結果会社解散が決定されます。当時、開発協会の専務理事だった彼は、社員に解雇を申し渡す辛い役目を担いました。
 昭和57年5月、古巣・名古屋航空機製作所で、発足25年記念事業として所史が編纂されることになり、そのアドバイザーに迎えられます。この際、彼が業務部長の時に所報で連載した、航空史の随筆『翼の誕生』が役立ちました。
 航空界と共に歩み続けた若杉は、平成13年8月に85年の生涯を閉じました。

となみ野ストーリー
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掲載日:2012/9/1 次回更新日:2012/10/1
となみ野ストーリー 第58回.日本の『翼』を世界に広めた男

●故郷に残した爪跡に苦悶する
 戦後、開発・製造された国産民間旅客飛行機「YS−11」。その後継機開発を進めるべく設立された民間輸送機開発協会で、専務理事として活躍したのが若杉禮三です。
若杉は大正4年11月、東礪波郡雄神村庄(現在の砺波市庄川町庄)で生まれました。県立礪波中学校、彦根高等商業学校(現在の滋賀大学経済学部)を卒業後、昭和13年に三菱へ入社します。それから間もなく、彼は福光・若杉写真館の長女と結婚しました。
 この頃から日本は戦争の道を歩み出し、彼がいた名古屋航空機製作所もその渦中に巻き込まれます。このため工場の疎開が急務となり、大門・井波・福野等の元紡績工場へその機能が移されることになりました。その後は、故郷・雄神村に地下工場が建設されることになり、昭和20年3月からトンネル掘削工事が始まったものの、途中のままで終戦を迎えます。
 敗戦後の残務整理を終えて故郷へ戻った若杉は、緑いっぱいだった山麓の変貌ぶりを目の当たりにし、ただ愕然としました。
●日本の航空技術を世界へ!
 さて三菱重工名古屋航空機製作所主管だった同45年、若杉はYSの後継機開発のために設立された開発協会に出向しました。この頃開発協会では「YX/XXX」の開発が計画され、彼はボーイング社との交渉役として、契約締結に尽くしました。
 さて技術的には成功した日航製でしたが、海外販売等の失敗で赤字を重ね、結果会社解散が決定されます。当時、開発協会の専務理事だった彼は、社員に解雇を申し渡す辛い役目を担いました。
 昭和57年5月、古巣・名古屋航空機製作所で、発足25年記念事業として所史が編纂されることになり、そのアドバイザーに迎えられます。この際、彼が業務部長の時に所報で連載した、航空史の随筆『翼の誕生』が役立ちました。
 航空界と共に歩み続けた若杉は、平成13年8月に85年の生涯を閉じました。


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若杉禮三
若杉禮三


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