となみ野ストーリー 第60回.柔の道を心から愛し続けた男
●虚弱体質の自分を鍛えたい! 昭和58年に行われた「正力杯国際学生柔道選手権大会」の開催時、大会運営をめぐって全日本柔道連盟と全日本学生柔道連盟が対立、以後柔道界の内紛に発展しました。この際、全柔連側の代表として、両者の融和に心を砕いたのが老松信一です。 老松は明治45年1月、東礪波郡出町中神(現在の砺波市中神)で生まれました。幼い頃から虚弱体質だった彼は、体を鍛えるため柔道を始めますが、次第にその面白さに目覚めます。そして東京高等師範学校へ進学し、昭和8年に講道館へ入門します。 五段に昇進した同12年、老松は同校を卒業し、満州国の旅順師範学校へ訓導兼教師として赴任、その後は助教授となります。満州で行われた大会に出場する中で、老松の名は日本・満州双方の柔道界に轟きました。そして昭和18年に帰国した老松は、旧東京体育専門学校助教授に就任しました。 ●本籍地「砺波」に誇りをもって… 昭和24年4月に老松は東京教育大学体育学部学務課長となり、4年後には全日本柔道連盟常任幹事、講道館庶務課長に就任します。この頃彼は、柔道に関する記録をまとめた『柔道五十年』を出版、当時の講道館長・嘉納履正から「柔道を目指す人が常に手に取るべき好著」と高く評価されました。 さて昭和31年、順天堂大学教授となった老松は、柔道部の部長に就任します。彼は新入生が入ってくると、必ず「技を見ましょう!」と言って打ち込みの相手となり、一人ひとりに時間を掛けて指導しました。その後、電気通信大学に移籍しますが、引き続き学生に柔道を指導する日々を送りました。 早くから故郷を離れた老松は、本籍地を砺波に置くことにこだわり続け、自動車を運転しないにもかかわらず、欠かさず免許証の更新を行い、身分証明書として肌身離さず持ち歩きました。 嘉納の柔道精神の実践と普及に生涯を捧げた老松は、平成7年4月に83年の生涯を閉じました。
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老松信一
老松信一
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