となみ野ストーリー 第66回.最後の数寄屋大工と言われた男
・「他人の仕事を見ることで、自分を見る!」 茶の湯を行うため、茶席・勝手・水屋などを備えた小庵や茶室、また茶室風の建築様式のことを指す「数寄屋」。小矢部市出身の中村外二は、数寄屋大工の棟梁として活躍しました。 中村は明治39年12月、西礪波郡石動町鍛冶町(現在の小矢部市新富町)で、桶職人だった父・栄太郎と母・つるの三男として生まれました。母の実家は代々大工の棟梁を務め、兄は叔父の元で大工修行をしていました。しかし26歳の時に他界、父から大工になれと言われた彼は13歳で叔父に弟子入りします。 しかし22歳になった中村は、「外へ出て、自分の腕を試したい」と思い、手間請け大工として独立します。そのうちに隣町の貴族院議員・高広次平の本宅の建設に携わります。この仕事を通じて京都の料理旅館の新築工事を担い、以降は京都に滞在しながら、多くの建設物を作りました。 しかし世の中は戦時体制となり、昭和20年6月から約2ヶ月の徴兵を経験します。復員後は、「ひとつひとつ心をこめた建物を造り、自分の作品として残していきたい」と思うようになりました。その後は数多くの茶室を手掛けました。 ・ロックフェラー邸やジョン・レノン邸を手掛ける 中村の生涯の中で特筆されるのは、松下幸之助から多くの仕事を任されたことです。本社会長室にある茶室や生家にあった長屋門の移築、そして伊勢神宮の茶室を手掛けました。神宮の茶室は「三百年もつものをやりたい」という松下の言葉を受け、中村は大工のプライドにかけて取り組みました。 また中村は画家・東山魁夷や鳥海青児、作家の遠藤周作、俳優・市川右太衛門や哲学者・梅原猛らの邸宅建設のほか、海外でもニューヨークのロックフェラー邸、インドの日本大使館庭園内茶室、ジョン・レノン邸日本間などの建築に携わります。平成9年5月、中村はホンモノの「数寄屋建築」を追い続けた90年の生涯を閉じます。
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中村外二
中村外二
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