となみ野ストーリー 第69回.「こきりこ」を心から愛した男
●唯一の伝承者との出会い 富山県三大民謡のひとつ『こきりこ』は、古くから五箇山地方で唄い継がれ、昭和初期には「幻」の唄とされ、その存在は危うくなりました。小学校教諭だった高桑敬親は後世まで伝えようと、地道に史実調査を続けました。 高桑は明治33年、東礪波郡平村上梨(現在の南砺市上梨)で生まれました。大正15年に県立富山師範学校を卒業した彼は、東中江尋常小学校訓導(教諭)となり、教員生活の第一歩を踏み出します。 さて昭和5年の夏、彼にこきりこの調査をするきっかけが訪れます。それは詩人の西条八十が、「民俗学者の柳田國男が話す、こきりこについて教えてほしい」と来村したと聞いたことでした。西条が柳田から聞いた『奇談北國巡杖記』にある一節を愛唱していることを知り、そのこだわりに疑問を抱きます。調べるうちに、この唄を知る女性・山崎しいと出会い、歌詞を採集します。こうして、「こきりこを通じて自分の地域を探りたい」と考えるようになった彼は、教壇に立つ傍らで、史料の発掘や古文書の解読などを行いました。 ●五箇山の素晴らしさを世界に発信! こきりこを後世に伝えなければと考えた高桑は、昭和26年に越中五箇山筑子唄保存会を設立し、自ら会長に就任します。しかし歌のみで踊りがなかったことから、彼は古文書調査を行い、踊りと服装の再現を急ぎます。そして翌同27年7月には、文部省無形文化財審議委員会に招かれた保存会の面々は、東京でこきりこのテレビ収録に臨みました。これを機に、民謡研究の第一人者・町田嘉章ら文化財審議委員が五箇山を訪れ、こきりこの保存を熱く訴えます。こうした声に推された保存会の面々は、全国各地のイベントに出演し、そのピーアールにつとめました。 時を経た昭和56年、高桑は80年の生涯を閉じます。昭和58年4月には、高桑が全精力を注いだ『平村史』が完成しましたが、その完成に立ち会うことはできませんでした。
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高桑敬親
高桑敬親
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